悲喜劇の名作「男はつらいよ」は、喜劇と見るか、悲劇と見るか
不朽の名作、「男はつらいよ」は、日本が誇る超ロングランの大ヒット映画。
もはやご説明には及ばないほどの有名な作品です。
ここから先は、「男はつらいよ」の映画そのものを「寅さん」と呼んでしまうことも多いと思いますが、ご愛嬌にてお願い致します!
誰でも知ってる凄さ!
山田洋次監督の現代劇ファンであり、「男はつらいよ」ファンの一人である私も、寅さんが公開された時には勿論生まれておらず、寅さんが年に2回公開され、夏休みと冬休みの定番であった頃のリアルタイム世代ではありません。
実際に、リアルタイムで上映している情報として記憶に残っているのは、50作で復活を遂げたマドンナ・及川泉ちゃんが登場してから。
実際には、その頃には満男がフォーカスされる物語になっているので、本来の寅さん劇とはまた違うわけですが、映画を観たわけではなく情報の記憶ですので、当然そんな内容すらも知らず。
10年程前に「男はつらいよ」をはじめて観て、その作品内容を理解し、改めて「ああ、こう言う映画だったんだ!」と知り、全作品を観て好きになったというわけですが・・・
しかし、子供時分に、田舎の祖父母の家に行くと、地上波放送が流れていて、「寅さん」のことは知っていました。
寅さん、つまり渥美清さんの姿形の印象、認識は小さな頃からしっかりとあったのです。
同じように、未だ「男はつらいよ」を観たことはないけど、お正月や週末の再放送枠で寅さんを見たことがある、という方は多いのではないでしょうか。
「どんな内容なんだろう」「作品を観たことない」という方でも、寅さんは知っている。
これって、すごいことだと思いませんか。
洋画、邦画に関わらず、ちゃんと作品は観たことがないけども「タイトルとその主人公のキャラクターを知っている」。それって、本当に凄いことです。
「ローマの休日」も、某国王女であるヒロイン役を、オードリーヘップバーンが演じているという事は、観たことがない人でも誰でも知っているのではないかと思います。
またしてもビートルズに絡めます。(笑)
音楽に置き換えても同じで、例えばビートルズの曲は、ビートルズのファンでない人でも歌えたり、ビートルズを知らない人でも曲は知っている人がほとんどです。
「いいや!自分は知らない!」なんて人でも、ビートルズの曲が全く流れていない環境で過ごす事はとても難しいです。というほどに、全世界の至る所で流れたり、使用されたり、カヴァーされていたり。あるいは、そのグループの名を見ることがあったりと、ビートルズの存在を知らないで過ごすというのは、なかなか難しいことです。
「代表作」=「全作品」とも言える、ポピュラー音楽界のレジェンド、ビートルズ。
曲はずっとどこかで耳にしていたんだけども「ああ、この曲、ビートルズだったのか!」と、後で知る事もあると思います。
よくあることじゃん、他にもそういう人いるよね、そういう作品あるよね、と思ってしまいますが、何気なく暮らしている世界の中で、そうやって例にあげることが出来る人や作品が存在する、その全てが凄いことなんだなあと思います。
そんな「凄い映画」である「男はつらいよ」。
その凄さやストーリー概要は、数多くある情報から学んで頂くとしまして(笑)、このブログでは、概要紹介は端折りまして「男はつらいよ」をご存知のことを前提で、主観で自由に語らせて頂いてますので、今回は、悲喜劇について考えたいと思います。
いち作品のファンとしての意見を思いのままに綴っていますので、ご愛嬌にてお願い致します。
繰り返します!全48作DVD所有のファンです!
仮に、同じくファンの皆様と違う意見を出しましても、あくまで今私が感じる主観的な感想ですので、数年前の自分の意見とは違う感想かもしれないし、また来年には違う感想になっているかもしれません。
色んな感じた事を綴っていると、長くなりますが、よろしくお願いします。(笑)
「寅さん」は悲喜劇?
悲喜劇とは、悲劇と喜劇の両方の要素を含む作品のこと。
悲劇的要素があるんだけども、笑える要素満載であり、最後はハッピーエンドで終わるような作品。
まさに「男はつらいよ」そのものですね!
えっ?違う?
「男はつらいよ」は喜劇だよ、って?
確かに、喜劇です。
昔は、劇場もとても自由で、上演中は笑いがどっと湧きっぱなしだったとも言われてますよね!
DVDで観ても、寅さんの愉快でバカな行動には笑いがこみ上げてきます。
そして、人間同士の絆や、古き良き時代の暖かさも感じることが出来る、とってもハッピーな映画です。
喜劇か悲劇か、ヒューマンドラマか。
どう感じるかは観た人の主観だと思いますが、どの要素にも当てはまる作品ですよね。
純愛ストーリーなども当てはまるかもしれません。
個人的には、悲喜劇とも呼べると思い、話しを進めていますが・・・
まだ作品を観ていない方にとっては、喜劇、コメディ映画というイメージが一番強いと思います。
もしかしたら「悲劇」という言葉が全く浮かばない方もいるかもしれません。
でも、寅さんはものすごく「悲劇」であると思うのです。
あくまで個人的な意見ですよ!(3回目。笑)
自由とは悲劇のはじまり?
自由に生きる寅さん。
しがらみもなく、何にも縛られることなく、身軽で、そして一箇所にとどまる事なく旅暮らしをする寅さん。
人を見た目で判断せず、誰に対しても同じ目線で会話をし、強きを挫き弱きを助ける寅さん。
その生き方も人情も、とっても男らしいですよね!
義理人情、その人格は素晴らしい事に違いないので、それはさておき、しかし、この徹底した「自由に生きる」というところに、実は深い悲劇を感じるのです。
寅さんのお決まり劇である、故郷に戻っては喧嘩し、再び家を飛び出て、情深いゆえに時に厄介な問題に関わってしまったり、恋愛しては失恋し、寂しくなっては故郷を訪ね、そしてまた再び出て行く旅の空・・・と言う展開。
妹さくらが兄の尻拭いをして頭を下げるシーンもしばしば。
この、「男はつらいよ」の定番であるストーリー展開と寅さんのコミカルなドタバタ劇が、多くの人々の笑いを誘いながらも、時に「いい歳をして家族に迷惑ばかりかける!」「成長しないヒーローだ!」と、真面目に不快を表す方が少数いるのも事実です。
私個人の意見では、人々の笑いを誘う「いつまでも大人になれない少年のままの男」「毎回同じ行動を繰り返す寅さん」、これらの展開こそが、この作品の意図ではないかと思うのです。演出的な意味だけではなく、メッセージとしても。
「こうなってはいけないよ」というある種の警告を、笑いと共に人々の心に届けているのではないでしょうか。
ですから、この展開(大人になりきれてない寅さんの行動)に、不快感を表す、ごく少数の人たちがいたとしても、このストーリー展開に不快感を表すのではなく、まさに「それこそがこの作品の真意」とでも受け取るべきかと思うのです。
多分、その不快な感情こそが、正しいのではないかと思います。少数派の意見こそが正常な反応。正し過ぎる故に、疲れる事も多いかも?しれません。世の中には、ハメを外しまくるタイプも多いと思うので。(笑)
そして、映画の展開、寅さんの行動、ストーリー全てに心から笑えて「最高の喜劇だ」と思える人、つまり過半数以上の意見の方々は、おそらくとても幸せであり、ニュートラルな環境で生活できている人々ではないかと思います。
「そんなに幸せじゃないけどなあ」と思う方がいたとしても、きっとそれは気づいていないだけで、幸せなのです。
そして、寅さんを悲劇と感じる方。
不幸とは言いません。(笑)
ですが、寅さんをなぜに悲劇と思うか、それは、寅さんの生き方に共感を得ているからこそ、あるいは共感を得る環境を経験したことがあるからだと思います。
普通に暮らしていたら、寅さんの生き方に「憧れ」はあっても、「共感」はしません。
遠い世界だからこそ、憧れることが出来る
会社員であれば会社員の物語、スターを目指している人であれば、ライバルの存在に怯えながらも才能を開花させて成り上がっていく物語など、自分たちが置かれている立場に近い物語のヒロインやヒーローは、共感を得ます。
失恋で苦しんでいる人であれば、失恋の物語を観て共に心を傷めます。
逆に、スーパードクターや、スーパー弁護士、悪を倒していくヒーローなど、自分には遠い世界の人間に対しては、純粋に憧れを抱き、全く別世界として客観的に観ることができます。
別世界のヒーローやヒロインが苦しんでいたり、悲しんでいても、共感ではなく「応援」という形で物語にのめり込んでいきます。
寅さんも同じ、ほとんどの人にとってが全く別世界の、想像つかない世界に生きるヒーローなのです。
だからこそ、その姿やドタバタ劇に笑うことが出来て、寅さんの上も下も関係なく生きる姿、義侠心、幾つになっても少年のような佇まい、その自由な姿に憧れることもできるのです。
そして、その姿に憧れることが出来ること、それはとても幸せなことでもあるのです。
人間が自由に対し、幸福感を感じる時・・・
人間が幸せを感じるのは、限られた時間の中、決められた枠の中で、僅かに得る事が出来る自由な時間、そのわずかな自由な時間で好きなことをやる瞬間、そして、何かを犠牲にしてようやく物事を達成して満足感を得る時です。
仕事で忙しい中、ようやく得ることができた自由な時間で、好きなことを思いっきりやろう!
家で家族を待たせてる中、仕事が終わったご褒美にほんの少しだけ同僚と飲みに行きたい!
一生懸命お金を貯めて、海外留学。その中で日本では得られなかった自由な体験をしたい!
一生懸命働いてようやく得れた夏休み、自由気ままに旅をしたい!
今しかない若さの中、親や教師の目を気にしながらも、青春を思い切り謳歌して遊びたい!自由な格好で遊びたい!
これらの「自由」には、全て幸福感が伴います。
しかし、そこには必ず、規制された中で成し遂げてきたことでそれまでに失った時間や、明確な目的や期限、ルールなどが必ず存在します。
もしそこに、時間も期限も何の制限もなく、何も犠牲にすることもなく、特段目的もなく、誰からも何も言われない中で「好きなことをやれ」と言われたとしたら。
あるいは、自分の好きな食べ物を、毎日毎日、限りなく目の前に出されて、思う存分、永遠に食べ続けて良いと言われたら。
きっと幸福感を得る事は出来ません。
逆に、嫌気がさしてうんざりするかもしれません。
幸せを感じるためには、箍が外れてしまってはいけないのです。
自由は、制限がある中で与えられるからこそ自由であり、本当に自由では、それはもはや自由ではないのです。
永遠にイメージすることができない終着地点に向かって、バタバタと羽を動かしているままでは、その自由がいつしか苦痛に変わり、心の中の自由な幸福感は永久に訪れる事はありません。
寅さんの本当の悲劇とは
寅さんは、いわば箍が外れてしまった状態です。
本当に何にも縛られることのない自由な環境だからこそ、心は常に自由ではないのです。
それは、悲劇以外の何でもないように見えてしまいます。
旅立つ寅さんの背中に哀愁感が漂うのは、何かとの葛藤を常に抱えているからなのでしょうか・・・
寅さんがポジティブに活性化する時
寅さんが旅先で出逢ったマドンナと「東京柴又でまた会おう」と言うようなニュアンスで「約束」らしき言葉を交わした時、そこから先、マドンナに再会するまでの寅さんは目まぐるしく行動を起こします。
ポジティブな心持ちで柴又に帰り、いつ来るか、いつ来るかとマドンナが訪れるのを待ち焦がれ、その姿には緊張感が漂います。
「この機会を逃してはいけない」と思うからこその行動であり、恋に破れるまでの僅かな時間は、生き生きとしているのです。
そして、その僅かな時間で繰り広げられるドラマには、多くの行動を起こしたことによる結果を残し、充実感を得ることで笑顔も増え、数多くの思い出が生まれます。
しかし、恋が実らぬ結果となった寅さんは、また旅に出ることになります。
いつ故郷に戻るのか、何の予定も目標もありません。ただただ、生きるために商売をやりながら全国をまわるまでのこと。次はどの土地にとどまるのかすら、自分でも分かりません。
しかし、悲劇は、実はそんな単純なことではないのです。
実は寅さんはモテていた?
寅さんはマドンナに振られてばかり・・・と言われていますが、これも寅さん自らが自己アピールして生まれたイメージのようなもので(笑)、実は寅さんはとてもモテています。
シリーズ全作観た方ならわかるはずですが、寅さんは、マドンナの心を概ね射止めています。
勿論、寅さんを恋愛対象として全く見ていなかったマドンナも複数人いますが・・
寅さんに恋心を抱き、寅さんさえ行動にうつせばゴールインしていてもおかしくない物語は、シリーズ上にいくつも存在するのです。
観てる方なら、わかりますよね。(笑)
余談ですが、個人的には、ぼたんさんか、おちよ坊と一緒になって欲しかったなあ・・と思いますが、リリーさんはじめ、他にもお嫁さん候補(というか、お嫁さん寸前!)のマドンナ、沢山いました。(笑)
また、寅さんの憧れる「堅気の暮らし」に身を置けるチャンスも、何度も訪れているのです。
恋愛成就が目の前なのに、安定した憧れの暮らしが目の前なのに、自ら身を引いて旅に出る。
実は、これこそが、寅さんの本当の悲劇なんです。
寅さんから学ぶこと、「逃げてはいけない」
寅さんは、勇気を出して手を伸ばせば掴めるような、目の前に訪れた幸せから、自ら逃げているだけなのです。
それが、究極の悲劇なのです。
その行動はある意味、自信の無さの表れでもあるのかもしれませんが「本当はそうしたくない」「このまま旅暮らしをしたい」と言う思いが心の何処かにあるからなのではないでしょうか。
そして、自らの本音を隠す言い訳のように「こんな俺が、〇〇(マドンナ)に似合うわけねえだろう、さくら。」などと台詞を残し、柴又を後にする。自ら、「自分はフラれてばっかりだ」と言う印象を周りに見せつけているのです。
寅さんの生き方は、寅さんの望み通りに
寅さんの、恋愛ヒストリーにおける繰り返し劇は、寅さんが望んで起こったもの。
これは映画なので、こう真剣に語るのもおかしいかもしれませんが(笑)、しかし、人生はやはり、自分で無意識に選択している道に、自分の望みや捨てられないものが隠れているのかもしれず、それらを自ら判断して乗り越えない限りは、未来は訪れないのだろうと気づかされます。
「自分なら大丈夫だ!やれる!」「自分にはダメだ、無理だ。」これら2つの両極端な思いは、人間が分岐点に立ったときに誰もが頭に浮かぶ思いです。
そのどちらを強く思い、願い、その先を想像することが出来るかによって、人生は大きく変わるということでしょう。
数々のマドンナに振られてばかりの男というのも、「そこが渡世人の辛えところよ」と涙ながらに柴又を後にするのも、寅さん自身の行動であり、ブランディングです。
そうであってはいけないと思いながらも、結局はそうなってしまう、それはやはりどこかに同じ生活を捨てられない、その中の暮らしから得るわずかな喜びを望んでいる心があるからなのです。
旅暮らしの中の一期一会の出会い、思いもつかぬ展開、寅さんの言葉を借りれば「旅先でふるいつきたくなるようないい女と出会うこと」の喜び。それらの喜びは、自身の経験から確実に得られるものとして想像がつく事での安心感があり、それ以外の選択をした場合どうなるか、想像がつきません。
人間は、想像する事に始まり、違う一歩を踏み出し、その想像に近づく努力をし、結果を手に入れ、そしてまた新しい想像を生み出す事で、変化とともに進化していくのかもしれません。
新しい扉を開いて行動を起こす事は、そうそう簡単な事ではありません。ほとんどの人間が、変化を恐れ、違う一歩に踏みとどまるのと同じように、寅さんも同じく、変化を恐れるあまりに、変化してより良い暮らしになる可能性を自ら諦めてしまっているのかもしれないですよね。
しかし、通常は、リスクを伴う冒険に踏みとどまり、平静に落ち着き、その普通の暮らしの中で自然に変化や成長をしていくのが人間の暮らし。寅さんの場合は、逆なのです。15でぷいっと家を飛び出し、そこからずっとリスクを背負い冒険を続け、本来の暮らしに戻ることを恐れているのです。
「人間、そうなってはいけない」と、早々に寅さんに警告をしたのが、志村喬さん演じる「ひろしの親父」さんです。
シリーズの前半で登場しては、印象的な台詞で寅さんに人生の極意をさりげなく教えていた「ひろしの親父」の言葉こそが、この映画の真のメッセージだと思います。
人間には、人間の本来の生活というものがある。
しかし、寅さんは今も旅を続けています。ひろしの親父さんに言わせれば、それは人間の本来の生活ではないのです。
寅さんは「憧れ」でいい
自由で鳥のようで、何にも縛られず旅暮らしをしながら思うままに働き、何にも恐れないその姿は、多くの人にとって、特に男性にとっては「一度はあんな風に自由に旅をしてみたい」と思える、そんな憧れの存在でもあります。
憧れの存在でいいのです。
寅さんを憧れの存在と思えることこそが、幸せなのです。
例えば、世界放浪の旅でも、フリーランス暮らしでも、ゼロから事業を立ち上げるでも、突然リストラされたでも、ある日突然宿を無くしたでも・・・何か少しでも、何の束縛もない自由な世界を経験したことがある方ならば、寅さんの旅立つ後ろ姿を見て悲劇と感じない人はいないはず。
しかし、そんな経験があっても、戻る場所があれば、いつかは収まるべき場所に身を置くことが出来るならば、心の平静を取り戻す日が来る。
本当に寅さんのように自由に人生を生き続けていたら、どうなるか。
それが、映画に込められたメッセージのひとつでもあると思います。
勿論、人間同士の絆や、家族の愛、義理人情、人との出会いなど、映画に込められたメッセージは沢山ありますが、あくまでその中のひとつとして、人間の本来の生活から離れた悲劇、と言うのもあるのではないかと、個人的には思っています。
寅さんの人生のゴールは、今も見えません。ゴールが無いことが生き様としてのゴールであり、完結することが無い物語が、寅さんというヒーローの物語です。
どれだけ自由に青空を羽ばたいていても、青く広い水平線の先を目指して航海に出たとしても、羽を休める場所がなければ、途中でくたびれてしまいます。
そして、「目的地」や「戻る場所」がなければ延々と飛び続けることになり、力尽きれば、あとは、ただ落ちるだけです。
ただひたすら、落ちないように、到着地がわからぬまま自由に飛び続けることを維持することが、どれだけ大変か。そう考えると、全く自由ではありませんよね。確実に言えることは、生きる力の強さ、たくましさは誰よりもあるという事です。
大空を羽ばたく凧には糸があり、いざとなれば手繰り寄せてくれる、地上で手綱をしっかりと握る人がいるから、のびのびと自由に飛ぶことが出来るのです。
それが、幸福感を感じることができる「本当の自由」ではないでしょうか。
仕事でも夢でも人間でも、しっかりとした手綱を見つけなさいよ、間違っても自分で糸を切っちゃダメですよ・・・
糸を切った凧が飛び続けるにはね、凧そのものが頑丈である事、あとは「運」だけなんですよ・・・
・・・・という、お話しなのじゃないかしら。なんてね。
寅さんは、今も旅を続けています。
永遠に、私たちの憧れの、変わらぬ飾らぬ、自由な寅さんの姿のままで。
そして、それは偶像でなければなりません。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。